No.51 「大器晩成 」

「60を超えて思う音が出せるようになった」とはギターの巨匠セゴビアの言である。
同じように「60をすぎてようやく本当の発声がわかってきた」と
中川牧三に語ったのはかの大歌手デル・モナコ。 
触れただけで相手を飛ばす技を68歳で実現した合気道の佐川幸義は
「人生70歳代が一番研究がはかどるとき。
年をとってできなくなるのは単に力でやっていたということ。
もし60で死んでいたら今の合気はない」と言い切っている。

上記した人たちはそれぞれ若い時から抜群の才能を発揮して
成功をおさめているのだけど、
いずれもが年を重ねた時はじめて「達成」した何かがあると語っているのは興味深い。
実は僕などこういう話を聴くと、まだまだこれからやれると思えて気が楽になるのだ。
なにごとも早く達成することが世の流れで、
年を重ねること自体がなんとも希望のない表現しかされない今日、
加齢が肯定される事実があるということはうれしいものだ。

身体を使うパフォーマンスにはいろいろあるが、
たとえばスポーツなどでは加齢をメリットにしていくのは至難の技だろう。
さいわい僕達がかかわっている藝術というフィールドでは、
加齢を「使える」ところがいい。 先の達人たちはある意味で、
精神と肉体の「おりあい」をつけたのではないかと想像している。
僕はまだその年齢にはしばらくあるが、ていねいに身体をあつかって、
こつこつ根気よく正しい勉強を続けていけば、技術の正確さを得られ、
いい音楽ができるはずだと身体を通 して感じているこのごろだ。
まだまだ技も音楽も不満があるけれど、
「大器晩成」という切り札が残っているじゃないか、と言うのはのんきすぎるかな。

 
No.52 「稽古と練習」

演奏のためには準備が必要である。
その内容はおおきく分けて二つある。ひとつは稽古、ひとつは練習である。
稽古という言葉を最近は聴くことが少なくなってきたが、
辞書をひいてみると「古(いにしえ)を稽(かんがえ)て、
物事がかつてあったやり方と、これからあるべき姿を正確に知ること」とある。
一方練習には「学問や技芸などをくり返し学習すること。
また一定の作業をくり返してその技術を身につけること」とあった。
  
稽古はプランニング。練習はトレーニングと訳してもいいだろう。
あきらかに違う内容ではある。
僕がやっている稽古は、その曲のタイトル、表情記号(AllegroとかAndanteなど)、
作曲者、作曲年代、場所、歴史などを調べ、作曲者の心情を想像して、
じっさいに少しずつ弾いて運指を検討しながら、
自分はいったいこの曲をどう弾きたいのか、ということを具体化していくことが中心だ。
重複する時間はもちろんあるが、基本的には練習は稽古が
一段落してから始ることになる。
どこに行くのか判ってから進もうというわけだ。

練習の段階にはいってからも、なにか問題が起これば、
かならず、稽古にもどり、チェックの入れ直しを何度も行う。
初めに頭で考えたことをなんとか音にしていこうとしていくと、
身体側の都合というものがでてくる。
そこで頭と身体のつじつまを合わせていくという仕事がでてくるわけだが、
稽古で決めたことに執着することさえなければ、
どんどんプランはバージョンアップしていく。
そのことで練習はなんどでも生気をとりもどし、活き活きしてくる。
マンネリ化もないし、演奏の肌理もますます細かくなる(はず)、というわけだ。
いつもいつも「お楽しみはこれからだ」の状態なんである! 


 
 
No.53 「具体化」

練習を続けていると、思うようにいかないことがある。
うまく弾きたいのだが、音はそうなってくれない。
何度アプローチしても、納得するまでにはいたらずに、
時間だけを過ごしてしまうという状態である。
  
この状態をじっくりと観察していくと、面白いことに気が付く。
うまくいっていないところは、「思うように」というそのものの「思う」内容が
具体化していないのがわかるはずだ。
タイミング、ヴォリウム、アクセント、カラー、スピードなど
細かい設定のイメージそのものが欠如しているのだ。
そのイメージが明快にあれば練習は進めることができる。
もしすぐにできなくても方向ははっきりしているのだから、
また明日の練習に確実につなげることができる。希望がもてるわけだ 。

これがはっきりしていないと、なんどでも「ああでもない」し「こうでもない」
練習が続くことになる。
つまりそのつどそのつど偶然にまかせた内容であるわけだから、
上手くいくことがあっても「たまたま」できたわけで、
なぜできたのかは判らないから、くり返すことができない。
つまり練習そのものが成立しない。
さて、その具体化の内容なのだけれど、難しい話ではないのだ。
それは何度も聞いた話。たとえばメロディが伴奏から浮き立つようにし、
拍子できめられたアクセントが逆転していないようにし、
付点音符では長い音符のヴォリウムは短いほうよりも大きいとか、
長い音符は強くひくとか、ごくごく当たり前のことを当てはめていくことが大事なのだ。
こういう小さな基本ルールひとつひとつが守れるようにていねいに稽古を重ねて、
運動がスムーズに流れるようになってくると、音楽自体から香が出てくるのだ。
まるで「ようやく約束をまもってくれたね」とでも言うように。 

    
No.54 「ひとつの答 」

てもとに2枚のCDがある。どちらもセゴビアの録音である。
1973年、5月と12月にマドリッドでとったもので、
彼は1893年の生まれだからこの時齢80である。
どちらの録音もひとことで言えばギターは「へたくそ」である。だが「凄い」のだ。
較べてすごいのではなくて、ただ「凄い」のである。
  
僕は25才のころまではセゴビアの演奏は全く好きでなかった。
妙に甘ったるく、不自然に感じられて、ほとんど聴いていなかったが、
グラナダでレッスンを受けて、実際に演奏を聴いたときぐらいから、
だんだんと自分のなかでの評価は変っていって、
今はセゴビア抜きにギターを語ることはとてもできない。
セゴビアに興味を持ち続けている理由は、
もちろん彼の音楽が偉大であるということが大きいのだが、それだけではない。
「老い」へ答えがありそうな気がしているのももう一つの大きな理由だ。
  
ギターは身体の運動抜きには存在しえない。
肉体は加齢と共に衰えていくのは必定である。
スポーツの世界では故障やリタイアというのは当たり前という認識があるけれど、
楽器の世界もそれがひっそりとしているだけで、プロ、アマかぎらず日常なのだ。
つねに身体のメンテナンス、技術のバージョンアップを考え、
実行するのを怠っていれば、はやい時期に身体が言うことをきかなくなってくるのは、
すこしでも観察眼をもって経験者を見ていけば判ることだろう。
10年ぐらいはあっという間で、気がつけば、ちっともレパートリは増えておらず、
音楽性もたいして上がらず、という例はいくらでもある。
セゴビアはそんな加齢にたいして実在するすばらしい答えの一つだと見る。  
この録音のセッションはそれぞれ1日ずつで終わっている。
ほとんどがテイクワンOKということだ。
セゴビアが「さあどうだ!」と言っているような気がする。

 

No.55 「常識のうそ」

もう30年以上もギターに関わっているわけだけれど、
いまだに昔とかわらないへんてこな常識がまかり通っているのはおもしろい。
「左手の指先はタコができるくらいにならないといけない」というものがそれ。
「なるほど、そのぐらい練習しなければ上手くはならないだろうな」と簡単に納得して、
タコができて喜んでいる人はいる。

でも、タコができるのは力んで「必要以上の力が入っているからこそ」
できるのが第一原因であり、「私は力んで弾いています」という証明と
見たほうがずっと真実にちかい。
往年のスペインの名手ホセ・ルイス・ゴンサレスは
「左手は指板のうえにハンカチが落ちるように弦に触れるように」と言った。
考えてもみよう。左手の指先は押弦という仕事と共に、
その作業に必用な力の方向、量をはかるセンサーとしての働きをになっている。
そのもっとも敏感でなくてはならないところが角質化で鈍くなっていて、
デリケートな演奏などできるものだろうか。

ことは左手だけに留まらない。
右脳、左脳という「アイディア」は否定しないが、
そう簡単に分けられるものではないのが事実である。
左手の過剰な力は右手にも確実に影響しており、
筋肉は緊張し(緊張は筋肉のレスポンスが悪くするから)弾弦は遅れがちになる。
結果 、音は暗くなり、ひいては音楽も重たくする。
この5年ぐらいずっと右手の力を抜くことに専念していた。
ちょっと先がみえてきたし、その練習の影響だろうか、
うれしいことに左手のタコもずっと減った。
今では1、4指はほどんどタコが見えなくなるぐらいまできている。
 これから先5年ぐらいでもう一段左手を洗練しようと思っている。
目標は左指先を見た人に
「ああ、ギターをやめたのですね」と言われるようになることである。 

    
No.56 「楽譜 その1」

楽譜は音楽家の宝である。
プロもアマチュアもない。僕はけっこう買うのを我慢していると思っていたのだが、
さすがに年数が重なったせいで、本棚2つぶんと押し入れ半分ぐらい
(奥のほうにあるのは随分陽の目をみていないものもある)は楽譜で占められている。
  
この先捨てることもないだろうから、自分の居場所を狭くしていくのはわかっているが、
必要に応じてまた増えていくことにはなるだろう。
はじめのころはろくでもない楽譜を何度も買わされた。
さすがに懲りて、最近はすこし智恵がついた。ダメな楽譜というのはたとえば、
古典の作品なのに出版者が勝手に音を代えたり、
運指はついているものの「絶対に弾けない運指」だったりするものだ。
じゃあ、どうやってそれを見分けるの、と問われると、いちがいには言えないけれど、
まず絶対買わないほうがいいのは誰が編曲したのか個人名がない楽譜。
それははなから除外した方がいい。

責任はとりませんよ、ということをその事実は含意している。
いいかげん練習した後に間違いが見つかって、
また練習しなおしというのではいくら時間があっても足りない。
それから下手なギタリストのものもダメ。
本人が弾けない(弾くつもりもない)から、
とんでもない音や運指がついていても平気ということがあるからだ。
一流の演奏家の書いた楽譜は、
言ってみればいいブティックのようなもので、音を選択するセンスがよいのだ。
その選択を通じて音楽の美とはなにかを味わうことができる。
書かれた運指は実際に使えることを本人が証明しているし、
それを丁寧にたどることによって、身体の使い方も、学ぶことができる。
この指をここで使った時に、どんな音を求めていたのか。
指や腕の筋肉のコンビネーションを、
ソルは、タレガは、セゴビアは「どう感じていたか」、
そして「そのときの心情は」と想像しながら弾くのはなかなかたのしい作業なのである。

 

No.57 「標準」

「わかる」ということは、文字どおり「分けられる」ことから出ている。
音楽が「わかる」ということも、そのへんから出発すると少し簡単になるように思う。
クラシックを一度も聴いた経験がなくて、
いきなり「マタイ受難曲」をきかされて「わかる!」と言える人は
希有な才能の持ち主である。
ようするに比較するものを自分の中に持てれば、
それはよくも悪くも「標準」になって、「わかって」いくのではないだろうか。
僕の「標準」のひとつに長年聴き続けている録音がある。

もうかれこれ30年以上は聴いていることになるが、
最初はLPで、それからCDにバトンタッチして聴き続けていているということになる。
いちばん回数が多いのが、カール・リヒターのチェンバロ、指揮。
オ−レル・ニコレのフルートなどによるバッハの「音楽の捧げもの」。
おりに触れて聴いて飽きることがない。
この録音のあとにも(データには1963年の録音とあるから当然といえば当然)
たくさんのちがう演奏を聴くことができるのだが、またリヒター盤にもどってしまうのだ。
  
ほかに永く聴いているものをしらべてみたら、
ビクトリア・デ・ロス・アンヘレスによる
カントルーブの「オーベルニュのうた」。
グレン・グールドのバッハの「インベンションとシンフォニア」
「バードとギボンズ作品集」。クライスラーの自作自演集。
ジャン・ユボーのピアノ、アンドレ・ナヴァラのチェロなどによる、
フォーレ「ピアノ四重奏第1番」などがあった。
どの演奏も憧れをもって聴いた。
こんな演奏ができればどんなにか楽しかろうと。
今も昔もこれらの音を聴くと同じように心引き込まれることはかわらない。
  その引き込まれ方を含めて僕の音楽の標準になってくれているようだ。 

 
 No.58 「体育」

練習は身体の運動をとおして、自分自身をしばっているものから
限りなく解放されて自由に向かっていくプロセスである。
気をつけていたつもり(だけ?)だったが、
実際は力に頼っていた練習がわざわい して、
身体の自由がきかなくなった。一生懸命練習することが自由どころか、
自分の 首をしめていたということだ。
それを機会に力ではない(おもに重力を利用した)弾 き方の研究を始めた。  
  
慢性的に必要以上の力を出すことを強いられた筋肉は、
その余分なエネルギーで、 みずからを傷つけるのではないだろうか。
その筋肉は、いわば疲れた状態にあって、仕事をしろ、という
(脳からの)命令がきても、ちゃんとした反応が起こるはずもな く、
また脳へフィードバックされる内容もゆがめられて、
次の運動に支障をきたす、という悪循環を招くのだ。
 
新しい弾き方(今もその内容は模索中であるので常に変化していて、
決定版という ものはない)に変えようとしてから6年ほどの年月がたつけれど、
そうやって(徹底的に力にたよらずに)弾いてわかってきたのは、
筋肉の負担にならない運動を探していると、
運動の質そのものが変っていくのではないかということだ。  
当面はとにかくエラーの少ない状態になれば、と思ってやっていったのだが、
結果 としていちばんよかったのは音色のコントロールが
しやすくなったということだ。えらく気をつけてしかできなかったものが、
少しでもらくに弾けるようになってくるのは嬉しい。
美しいポリフォニーの表現に欠かせない、極力薄いタッチも可能になってきた。  
以上のような技術にたいする事柄に以前の自分であれば、
神経質になっていたのだが、
今はまだ満足がいくというレベルではないにしろ、練習の気楽さはよほど増した。
それは即、練習量の増加につながる。
こういうスタイルの「体育?」もあってよいのではないかしら。


 

No.59 「ウェーバー・フェヒナーの法則」

ウェーバー・フェヒナーの法則というものがある。
内容は刺激と感覚にかかわるもので、例えば、
初めに掌に100gの重りをのせておいて、少しずつ量を増やして、
どのぐらいの重さが加わると物が乗ったかが判別できるかというと、
必要な重さは約10 g。
では 1g の重さが最初に乗った時の判別に必要な重さは、
こんどは先の10倍の100 gになるというもの。
数字は便宜上の物で厳密ではないが、感覚はわかってもらえると思う。

この法則は「りきみは感覚を鈍くする」と翻訳することができるであろう。
ウェーバー・フェヒナーの法則は同一感覚上の法則としているが、
僕にはどうも他の感覚にもリンクしているような気がしてならない。
つまりりきんでいる時は音もまともには聴いていないということである。
  
とてもややこしいパッセージなどを弾いている時など、
知らずしらずりきんでいるのに気付くが、
その時聴覚は明らかに仕事量を減らしているのだ。
実際に練習の音を録音してみたりすると、
実際に弾いている時に気付いていなかった音が入っていたりするのだ。
上達のためには自分の音をしっかり聴き、
それに気付き磨きをかけるのが当然であり、
「聞こえない」では話にならない。
要はりきみがないように注意すればよいということなのだが、
これがやっかいなのは、りきんでいると先の法則(感覚を鈍くする)がでてきて
「りきみそれ自体に気付かなくなる」ことである。
打開するには日常での気付きの頻 度を上げていくしかない。
ギターに関わっている時だけ注意して、というわけにはいかないのだ。
座る、立つ、食べる、etc.すべての日常の動きのクオリティが変らずに
ギターの内容だけを変えることは不可能に近い。
人間の身体というのはそういうものだ、と最近気付くことしきりである。 

   
No.60 「アマチュアの道」


最晩年のインタビューでセゴビアは日に5時間の練習をしていると言っていた。
ブリームは現役時代8時間。五嶋みどりの師であるディレイは
5時間練習時間があれば、2時間は基礎練習にあてなさい。と述べている。
  
レパートリを増やし、磨き、メンテナンスをしながら、
プロ活動するにはコンスタントに少なくない時間をかける必要があるということだ。 
よほど生活に余裕があるか、学生の一時期以外はアマチュアで
これだけの練習時間はとるのは困難だ。
  
じゃあアマチュアに道はないのか。 
音楽で充実した生活をする。というのはプロにとってもアマにとっても
同じ目的であるが、やりかたがちょっと違うのだ。
ギターのプロは言ってみれば24時間営業の専門店である。
ぼくも習慣的無意識的に四六時中ギターのことを考えていて、
あるときにパッとアイディアが閃いたりする
(こともある.....ただし使えるものとは限らないけれど)。
一方アマチュアは時間限定である。
練習時間の捻出のためには仕事をうまくスピーディに片付ける工夫がいるだろう。
生活を整理して無駄な時間を極力削っていく必要に迫られるだろう。
主婦だったら少々の家事の手抜きを大目に見てもらうよう、
家族を説得しなくてはならないかもしれない。
それも楽しい充実のギターライフの一部なのだ。
仕事が忙しくてできません」は「仕事を整理してまでやる気はない」というのと
同じである。目指すのは「玄人裸足」である。
レパートリは10曲もあればいい。難しかったり長くなくていい。
しかし、内容は「甘っちょろいプロより弾くぞ」という気概をもって弾いてもらいたい。
「アマチュアだから下手です」というのは、言い訳である。
それを言ってしまったら進歩はないのだ。

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  大谷 環/作・編曲、テキストは こちら   CD、録音作品は こちらへ どうぞ