No.1 「基礎は大事?」


やっぱり基礎が大事です。という人がいる。
で、こっちも「そうですねえ」とつい言ってしまう。
だが待てよ! 本当にそうかなあ? ギターも基礎練習などといって、
スケール(音階)とか、アルペジオなんかがあるわけだけれど、
これをいくら長時間一生懸命やってもアランブラは弾けないし、
その他弾きたい曲のレパートリも増えないのだ。
子供のころから何事につけ「基礎が・・」と なんども聞かされているもので、
そうだと思っているというのが本音ではないかしら?  
  
実際、自分自身が「ギターの基礎が大事だ」と実感するのは
ギターをスタートしてから10年くらいたってからで、
それこそ弾きたい曲が弾けなくてどうしても基礎に戻るしかないと
思うときこそが学びのタイミングなのだ。  
そのとき思い切って基礎練習すればいい。
それまではウォーミングアップ程度の指慣らしをして曲を弾けばいい。
時間は無限ではないし、楽しむことこそ第一だ。
面白いと思ってやっていることこそ身につくというのが原則ですね。

提  案。
   
年齢別基礎訓練の方法。
60歳以上:基礎訓練はやらない。好きな曲だけ弾く。
 
50歳以上:基礎訓練は一週間に一日。
指がまわらないと思った時は10分ぐらい弾く。

40歳以上:基礎訓練は一週間に2日ぐらい行う。
必要なトレーニングをするにとどめる。
惰性で弾き始めたと思ったら即やめる。
  
それ以下の年齢の人はその日その日を大事にしてご自由に。


No.2 「触 覚」


 
ギターを弾く上で最も大事な感覚は? と問われたら僕は「触覚」とこたえる。
じゃ、聴覚はどうなの?という疑問もあるだろうが、
聴覚は言ってみれば出てきた音をチェックする機能でしかなく、
「音を出す」という作業に厳密に言えばかかわっていない。
かんたんに言うと「聴いたときには手遅れ」ということだ。  
  
右手の触覚の話に限ろう。
ギターを弾くためには弦をひっかく(ちょっと言葉が悪いけれど
我慢してもらおう)わけだが、思い出してほしいのだけれど、
そのとき、弦の質(低音弦は金属が巻かれている。
高音弦はナイロンで出来ているなど)、温度、張力、ふとさ、、、
そんなことが実感されているだろうか。
たぶんほとんどの人がよく判らずに弾いているというのが正直なところだろう。
 
ではこの感覚がどれほど重要(おもしろい)か実際 に試してもらいたい。
いま練習している曲。よく覚えている曲であれば何でもよい。
難しい曲でないほうがよい。
長い部分は必要ない。むしろ1フレーズぐらいのほうがいい。
左手を気にせずに、右手の触覚だけに注意をむけよう。
まずは各指に返ってくる弦のテンションから感じてみよう。  
この感覚はどこまでも深まっていくことが出来るのが面白い。
慣れてくると各弦のキャラクタをはじめ、
もっといろんな情報が指から返ってくるのが判るよう になる。
スタートしてからものの5分も経たずに自分の音が艶やかに
なっていくのが実感できるはずだ。 
情報を受け取ろうという意志は感覚の窓口を開こうとするので、
それを妨げる無駄な力が抜けてくるというおまけもついてくる。
そんなことは無理だという人は思いだしてもらいたい。
盲目の人がどんなスピードで点字を読めるかということを。
人間の感覚は捨てたものではない

 

No.3 「拍子はアクセント記号だ!」

どんな曲においても一番最初に拍子(ビート)の指示がある。
3/4とか 4/4とかおなじみの数字だ。
で、なんとなく判っているような気になっているのだけれど
「どういう意味ですか」と聞かれると、1小節に4分音符が3つ入る、、
とか4つとか、という答えになってしまう。  
学校の試験だったらマルなんだろうけれども、
あくまで僕たちはギターを弾こうとしているので、
ここまで判っているだけでは何の役にも立たない。
じゃあ実践的で的確な答えは何だろう。
誤解を恐れずに言い切ってしまえば、これはアクセント記号のことだ。
いつも小節線のすぐ右にある音符(タイでつながったときなどに例外はあるが)
基本的にはアクセントが入っているのだ。
言葉を補足すると他の音より大きく弾く、ということだ。

このルールがその曲のスウィング感を決定して、
たとえその曲を知らなくても安心して? 音楽を楽しむことができるわけだ。
メロディーを知らなくても曲に乗ることができるのは、
実にこのルールがあるおかげなのだ。
ではいま弾いている曲で実際にトレーニングをしてみよう。
1拍めの音が、 2拍めや3拍目の音よりしっかり大きくなっているだろうか、
じゅうぶん注意しながら弾いていってほしい。

この時、メロディの情緒に流されないのがポイントである。
あくまでもクールにやっていこう。
なんど繰り返してもアクセントがずれないようになった時には
もう流れるような音楽が生まれているはずだ。
少なくともさっきまで弾いていた音楽よりは数段わかりやすいはずである。
しばらく前まで日本語に「節(フシ)」ということばがあった。
音楽や曲のことを表したのだが、とても良い言葉だと思う。

 
No.4 「松永一文さんのこと」


松永一文さんは現在オーストリア・ウィーンに住む、41才になる
ギターリストだ。この4月に僕の教室でマスタークラスをやってもらった。
今回で3度目になる。
1981年、中世の建築を残した街シエナ(イタリア・トスカーナ)での
オスカー・ギリアのマスタークラス(夏期1か月ほどの期間で行われる)で
会って以来親しくお付き合いさせていただいて、わがままを聞いてもらっている。
初めて出会ったころから才能輝くような演奏をしていて、
師匠のギリアと一緒に地元のTVに出演するなど、
この年からシエナに来ていた福田進一さんと二人で圧倒的に
目立っていた。ある日レッスン中に雷があって停電し、部屋が真っ暗になっても、
ジュリアーニの難曲ロッシニアーニを弾ききってしまったという実力だった。
もちろんその時はみんな大喜びの大喝采だった。
あれから15年以上がすぎて、松永さんはシエナにも一緒に来ていた
エリカという彼女(こまやかな気遣いがとても日本的?な人だ)と結婚して
ウィーンの人となった。
もう人生の半分をヨーロッパで過ごしているということになるはずだ。

こんどのマスタークラスでは8人が受講して、
それぞれにとって刺激的な時間だったようだ。
みるみる演奏の彫りが深くなっていったり、音がきれいになっていくのを
目の当たりにするのは、本人にも聴いている方にも感動的だった。
やっぱり目の前で教えてもらって自分の音(音楽)と比較することによって
判ってい くものなのだろう。音楽はしょせん人から人へ伝えていくものだなあと
再認識した2日間だった。 いろんな情報が豊富で、メディアも発達した現在、
音楽の勉強の方法はいろいろありそうに見える。
が、今度のように良いマスタークラスに接するとそういう
勉強がいかにちゃちなものか思い知らされてしまう。
松永さんのマスタークラスは来年も予定してい ます。 お楽しみに。
   
注:2002年に帰国し、現在大阪在住。

 
 

No.5 「上達のスパン」


  
スペインのバルセローナに有名な建築家のガウディが設計した教会
「サグラダ・ファミリア」がある。
ある、といっても出来上がってはいなくて建造中である。
うわさでは出来上がりは100年後とも、200年後ともいわれている。
日本やアメリカではこの時間が待てるかなと思う。
商売になることだけが先行している文化なので、
こんな悠長なことは言ってられないだろうなあということだ。
そのままだと何の特徴もないためか、早いことを直ぐウリにしたがるが、
たとえば新幹線を使って目的地に30分早く着いたからと言って
どれだけの得をしているのかなあと思うことはある。 
考える前に「早い=良い」というふうにこちらが
洗脳されてしまっているわけだ。ギターぐらいはそういう“常識?”から逸脱して
楽しみたいものだ。5年、10年、20年のスパンで考えたらどうだろう。

ギターに限らず良い趣味とは そんなものと思う。
芸術の世界までまわりのテンポに毒されることはないというのが僕の持論だ。
実際にレッスンをしていても気づくのは、なにも早く仕上げられる人だけが、
充実した音楽生活をしているわけではないということだ。
レパートリがこの10年間全然変わっていないという人だって
充分楽しんでいるのだ。
量はふえないが音楽がどんどん深くなっていって味わいが増してゆくのだから、
 教える側の楽しみも尽きず、レッスンがマンネリ化することもない。
そのプロセスは一言で言えば、
限りなく小さな変化に気づくことが出来るようになっていくということだ。
  
その感受性の変化こそが財産なのだが、変化の速度は現在私たちの生活を
取り囲むスピード感とは大いにちがうような気がする。
いくら便利になってもこういう人間の個人能力の
伸びるスピードは昔のままなのだ。
そう考えればもっと気長にギターと接することが
出来ると思うのだけれど、いかが?



   
No.6 「良いレッスン・悪いレッスン」

世の中は広いもので、ギターの先生だって良い先生もいれば、悪い先生もいる。
では、「良い先生」を定義づけるとすればどう言うべきだろう。
  
一番の条件は学ぶ人との相性がいいことだ。この条件を満足していないかぎり、
いくら大先生であっても授業料のむだづかいだ。
逆にギターを弾く腕がそこそこであっても(全然へたは論外)
マエストロたりうるのは面白い。

半年もつきあえば、先生との相性はわかってくるものだ。
もし合っていないと思ったら早めに止めるべきだと思う。
その間の授業料は無駄 かもしれないが、そのくらいケチケチしてはいけない。
ギターとの付き合いは一生モノとなるかもしれないのだから、
それを考えれば半年の授業料など安いものだ。
「三年学ぶより、三年師を探せ」というのはよく言われることだが、
ギターにもまさに当てはまる。
質の悪い先生に永くついて気がついたらトンでもない癖が付いてしまって
直すのに四苦八苦というのでは泣くに泣けない。
そして、よい先生にめぐり合ってからも何もかも先生まかせにしないで、
自分で工夫するのも生徒のつとめである。
それがあって初めて面白いレッスンが成り立つというものだ。

ある程度レッスンが進んでいくと、シグナルの一方通 行では済まなくなる。
どうしても生徒の練習を前提にレッスンが発展していく時期は来るのだ。
生徒さんのほうが必ず主役になるということだ。
レッスンにさえ通っていれば上手になるというのは単なる思い込みである。
レッスンは練習の代わりにはならない。
僕の師匠で作曲家の菅原明朗という人がいた。
いつも「1回のレッスンで一つのことを覚えればいいんです」といわれていて、
曲を弾いて1つだけ注意されて、その事ができたらおしまい。
日によってはレッスンは5分で終わって「コーヒー飲みましょう」だった。
僕もも少し歳とったらこんなレッスンをしてみたいと思う。

 

No.7 「練習のコツ」


  
ゆっくり丁寧に。自分の音を聴いて。拍子をとって。歌いながら、とか。
全部練習のコツである。決して間違いではない。
でも核心を突いているようには思えないのだ。
 
僕だったら何はさておき、「心静かに」と言うだろう。
ギターを弾く時間はとっておきの時間なのだから、
最高に楽しさを味わえるようにセットするのが望ましい。
そのための「心静かに」なのだ。
仕事(勉強でもいいけど)からギターの練習へいきなりなだれ込んでしまうと、
寸前にやっていた仕事のリズムや感情が続いてしまって、ちっとも練習に
ならないことが実際にあるのだ。やっぱり仕事のリズムと音楽のリズムは違う。
ましてあせったり、ざわついている頭脳は楽しみを見いだすことはできない。

僕はレッスンのときよく「仕事のことはドアの前に捨ててきてね」と言って始める。
でも、どうしても気持ちが仕事を引きずっている生徒さんが来たときには、
それなりに時間をとって、ゆっくり話をしたりして
気持ちの波がおさまるのを待ってからスタートしている。
そうすれば実質的レッスン時間はいつもより短くなるかもしれないけれど、
その方がお互いに気持ち良く、楽しい時間を過ごせて、
なお内容はずっと深く入れるのだ。
自分一人で練習をするときも心掛け次第で今よりもずっと効率のいい時間を
過ごせると思う。練習を始めるとき
「さあこれから自分のためのギター・タイムだ」と自分自身に言い聞かせるとか、
深呼吸を3回ほどするとか、自分のやり方でいいから
前の時間をうまくブレイクしてから新たにスタートするように
するわけだ。時間が無いというもっともらしい理由で、
工夫がなくて習慣だけの無味乾燥な練習を重ねてしまうのはなんとして
ももったいない。本来毎日の練習は一回一回発見のある、
非常にエキサイティングな時間なのだから。


 
No.8 「ギター万歳(その1)」

僕はプロだから(プロのくせに、という言い方もあるかな?)ギターが好きである。
もう四半世紀以上の付き合いになるけれど、
嫌気がさすこともなく楽しい関係が続いている。
演奏したり、教えたり、編曲したり、たまに録音もありという仕事の内容だけれど、
何をやっても面 白いという幸せ状態なのだ。
ギターの持っているキャラクタのおかげだと思う。

ギターは何といっても一人でメロディも伴奏も一緒に弾ける数少ない楽器の一つで
ある。同じ条件を満たす楽器は、西洋のものではピアノとハープぐらいである。
あとの楽器は独奏は不可能か、無理がある。まずこのキャラクタがすごい。
だからギター独奏曲のレパートリの数はピアノに次いで堂々第2位の順位だ。
音が小さいとか、音域が広くないとか、
弦が替わることによって音が揃わなくなるとか、ずいぶんデメリットはあるのに、
それでもギターが圧倒的に魅力がある理由はなにかというと
(もちろんこれは後から判ったことで、
僕自身は気づかずにギターを選んでいたということなのだが)、
同じ弦上でメロディを歌えるということに尽きるのではないかと思う。
これはピアノもハープもまったく歯がたたない。
まさしくこれができるからこそ本物の“歌”が楽器から生み出せるのだ。

音楽は「歌と踊り」が最初だと言っても反対する人はあまりいないと思う。
器楽はそれのずっと後になって興ったわけだから、
歌と踊りを模倣していけば練習 はまず間違いがない。
実際に曲のメロディを歌ってみると、
よく聴くと音と音の間をつなぐ音があることに気づくはずだ。
オペラ歌手などはこの音で勝負しているようなもので、
うまい歌手はこれが本当に見事なのだ。
かれらはそれをパッサージュといってとても大事に考えている。
ギターはそれを正確に再現可能な唯一の独奏楽器なのだ。
これを忘れてギターの面白さは語れない。

 
 

No.9 「あきらめる」

ある程度弾けるようになってくると、
自分では成長が止まったように思えるときが来る。
思うように行かないのだ。これはどんなにギターに向いていると思われる人でも
全員におこる現象だ。
ここをうまく乗り切れるとまた面 白い世界が見えてくるのだけれど、
正直言ってこの時期はつらい。  僕は「諦める」ことを提案する。
しょっぱなから「そりゃないよ」としかられそうだが、
「諦める」はこのばあい「明らめる」ということだ。 説明しよう。

スランプのときは見えるものも見えなくなっているのが普通だ。
特に自分自身は見えづらい。目標が高すぎるとか、
無理を通 そうとしていたりすることが多い。たとえば50をすぎてギターを初めて
手にして、3か月で「禁じられた遊び」はよっぽどでないと弾けない。
またドレミの位置を探しながら弾いている段階で曲に表情をつけようとしてもそれ
は無理というものだ。そう言われるとその通 りだと思うでしょう?
ところが自分の事となるとけっこう似たような事をしているものなのだ。
そういう時は一歩下がって自分自身を見てみるといい。理想が先行しすぎているの
を見たり、がむしゃらに練習している自分を見るのだ。「明らかに見る」のだ。
方法を見いだそうとするのではなくて、ただ自分のやっている事を見る。
   
何度やっても出来ない理由は、本人の努力が足りないということでなく、
殆どの場合やり方に問題がある。繰り返しくりかえし練習をしていると、
脳味噌は考えることを放棄してしまい、チェックが入らないただの機械的な反復に
なってしまうことが往々にある。もうこうなったら何度やったって上達は望めない。
「明らめる」ことによって新しい何かが生まれてくる。
その時心は平安であるし、
スランプの時につきものの「焦り」の感情も消えているはずだ。



 
No.10 「編 曲」

ソロにしてもアンサンブルにしても編曲の仕事は楽しい。
なぜって、今までは聴いているだけの世界だったものが、
編曲ができあがった時点から自分の手で直接能動的にかかわれるようになるからだ。
外の世界から内の世界へということだ。
  
聴くより弾くほうが何十倍も楽しい、というのは楽器に触れている人ならば誰でも
共感することだろう。下書きが終わって清書しているときなど、
もうすぐにでも弾いてみたくて、インクの乾くのさえもどかしい。
編曲のこつは何ですか?と問われたら僕は惑わず「選曲です」と答える。
とくにクラシックの曲の場合はそうだ。
初めから不可能な曲を選んだところで徒労に終わる。
ここがうまくいけば90%成功したと言って良い。
だからここで間違うわけにはいかないのだ。
じゃ、その選曲のこつは?と問われたら「経験です」というしかないだろう。
  
ギターへの編曲というのは殆どの場合、オリジナル曲のほうが音が多い。
ピアノ、室内楽、歌曲など、どれをとってもギターで同時に出すには音が多すぎて、
けっきょく音を削っていく作業が編曲になる(ちょっと話が大ざっぱでごめん)。
バッハの無伴奏チェロ組曲とか、バイオリンソナタなどは音を付加していくことに
よってこそギターのアドバンテージが表に出てくるが、
これらはやはり例外というべきだろう。その省音という作業は
パズルのごとき面白さである。めいっぱい音を残そうとすれば、
難しく運動性にかけまた削りすぎは寂しい。
こいつをいい塩梅にやってのけるところに腕の見せどころがある。
バランス感覚こそが第一だ。
昔編曲作品の一部はレコードの代わりでもあった。
こんな曲があるんだよといったって、
オペラの公演など聴くチャンスもない人達のためにかのタレガは
「椿姫の主題によるファンタジー」などを書いたのだ。

 

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 大谷 環/作・編曲、テキストは こちら  CD、録音作品は こちらへ どうぞ