No.31 「むずかしい質問」


機会があるごとに言っていることだけれど、ギターは、あらゆる楽器の中で、
もっともきれいな音のする楽器だと(個人的にだが自信をもって)思っている。
その音を一生かけて磨いていきたいとも考えている。
あの名手セゴビアでさえ、60歳になったころ「やっと思った音が出るようになった」と
言ってたからでもないが、けっこう呑気に構えているわけだ。

そんなスタンスでやってるものだから、レッスンの時もついついフォームのこととか、
タッチ、筋肉、神経の話とか、説明が多くなって
なかなか曲に進まないということもある。
そんな時、年上のかたから「間に合わないんですけど!」と言われる。
ほほえましくて、正直な意見だ。 気持ちも痛いほどわかる。手強い問いかけだ。
確かにギターを練習して、なにか「曲」が弾けるようになるのは楽しい。
そこには大きな達成感がある。しかし僕はどんなレベルであっても
今やっていることの面白さを見い出したい。
たとえそれが後に弾く曲の準備であっても、ギターを弾いていくことはそれ自体が
とても楽しいことだという認識があるからだ。注意が深まるにつれて、
感覚がシャープになり、ちょっとした身体の使い方の変化が判るようになり、
結果として音質の変化が得られ、音楽が花開くことだってあるのだ。
そんな音楽のだいご味を、あせってやみくもに難曲に挑戦するという、
目的の先取りをすることでつぶしたくない。
  
音楽することは将来の幸せのためではい。音楽はいつも「今」の幸せのためにある。
どんなにつまらなく見える練習にも楽しみがかくされている、
と言い切っていいぐらいだ。それを見出せるのは注意深さしかない。
将来を考えながら練習しているということは「今」にいないことで、
注意の散漫を示しているのだ。  
  さてあなたは(どんなレベルであっても)「今」を堪能してますか?
    
No.32 「独学」

ひとりでギターを学ぶことができますか? という質問に、
ぼくは「できません」と答えることにしている。この楽器の可能性はとてつもなく、
個人のアイディアなど軽々と凌駕していて、
先人の知恵なくしては学習はとても不可能だと思っているからだ。
それこそ何代もまえからの知恵のバトンをうけとる必要があって、
そのためにはどうしても先生につくことになる。
  
しかし学ぶということの基本はあくまでも「独学」の精神である。
先生から受け取るバトンは、まず本物かどうかなかなか見分けがつかない。
受け取る側のキャリアが浅かったりすると計る手立てがないからだ。
先生が「真実」だと思っていても間違っている危険性はある。
とくにこの世界で「伝統的にやっている」こととか「習慣的にやっている」とかいう
ことがらは考えずに受け入れられていることが多くとくに注意が必要だ。
一般的に信じられていることに、慎重にチェックを入れるのはけっこう楽しいことだ。
そのためにはいつも立ち止まって注意深く考える習慣が必要だ。
身体を整えることによって感覚を鍛えることも必要だ
(からだがひん曲がっていると感覚がとてもわるい。

「へそまがり」というのはまさに物理的な現象なのだ)。
独学ということは、どんなことも考えなしに受け入れない。
ひとつひとつ自分で確かめていくということだ。
そのためには身体をとおして味わっていくためのある時間が必要である。
その瞬間には確かに納得がいっても、練習していくうちに味わいが変わると
いうこともある。そんなときに過去にしばられずに柔軟に事実についていって、
あたらしい径をさぐれる「やわらかい頭」こそ独学者のキャラクタである。
簡単に信じるということはちゃんと考えないということと同じだ。
仕事をひとつ省略している感じがする。「疑い」は独学者の基本的スタンスであり、
もっとも真実に近づけると思うけど・・・・。

 

No.33 「禁欲生活」

禁欲ということばにはちょっと萎縮しているようなニュアンスが
含まれていて使いづらい。でもどんなトレーニングの基本にも
「禁欲生活」は含まれているといってもあながち嘘ではない。
じっさいよく練習していてもただむやみに弾いている人は
あまり巧くならない。「私は一生懸命やってます」という台詞の裏には
「やりたい放題に」という言葉がかくれている場合が多い。
うまくそれが当を得ている場合はよいが、そういう人にかぎってまず的外れで、
無駄 が多く、自己満足で終わってしまうのがほとんどだ。

練習というものはやはり地味な作業なのだ。
必要なニュアンスを出せる音をさがしたり、運指の無駄 を考えぬいて整理し、
そしてそれを自動的にできるまで習慣づけたり、こまやかな神経を使って、
ほんとうに数個の音をピックアップして練ることが必要な場面にもでくわす。
一曲全部を通すのは練習の最後の最後になって弾く自分のために「ご褒美」のようなもの。
  
いくつかの具体的な「禁欲プラン」(ちょっと冗談っぽい?)を挙げてみると、
まずは長時間やらないということ。1回の練習時間はせいぜい20分ぐらいに
とどめる。そして十分な休息。せめて同じぐらいかできればそれ以上の時間は
休みたい。その間に脳がやったことを定着させることができるし、
なによりも筋肉の受けるダメージを最小限におさえられる。
何時間も緊張を強いられた筋肉は回復するまでとても時間がかかるも のなのだ。
それとスピードをださない。速く弾けば問題に気付く暇がないのだから
改善のチャンスを自分でつぶしているようなもの。
「急がば回れ」はここでも至言なのだ。
のんびりと弾いていればそのうちに指に余裕がでてきて
無理をしなくてもスピードは自分でも気付かない間にあがっていくもの。

果報は寝て待て?! 
うーん、あんまり禁欲でもないかな。

 
No.34 「自然」

自然という言葉はなにげなく使われるけれど(だからこそ)ちょっと扱いづらい。
個人々々の解釈が違い過ぎたり、その意味が広範囲にわたるためかもしれない。
音楽のフィールドでは僕は極力使わないようにしている単語だ。
便利に使えるぶん落とし穴がある感じをうける。
  
ギターのトレーニングのゴールはたしかに「自然に聞こえる音楽」を
造り上げることなんだけれど、その練習の過程は、
少なくとも種をまけば花が咲くように
「ほっとけば」(自然に)うまく弾けるようになるってものではない。
テーマはどうやって「いかにもその音楽が自然に生まれたように聞こえる」
ようにするか、ということだ。
あくまでも造られた自然であることに間違いはないだろう。
造られた自然なんていうと、なんだか造花のようなイメージもあって、
いかにもまがい物らしく聞こえるけれど、
音楽はそのつくりそのもののレベルが非常に高いのだ。
藝術は「人工artificial」が限り無く「自然」に近づく行為だと思う。
「自然に弾く」とか「自然に聞こえる」とか、
この単語を使って理解する(考える)時に、
もう一つ単語をつけていくと面白い。たとえば音と次の音の関係が
ディミヌエンドになると自然に聞こえる。とか、タイミングがずれて遅れる
(もしくはつっこむ)と自然に弾ける、とか。などというふうにしていくと、
「自然」という言葉が表していた具体的な意味が
少し見えてくるのではないだろうか? 

自然という言葉を安易に使うことで、
いま一歩深い理解をのがしていることはないかな、とちょっと反省してみるのも
いいんじゃないだろうか? イヌイットの言語では「雪」の様子をあらわす単語が
何種類もあると聞いたことがある。音の世界もそうなれば面白いのにね。  
 

No.35 「楽譜」

音楽を書きとめる方法として一番ポピュラーなのが5線譜である。
ギターの世界ではタブ譜というのもよく使われていたりするが、
どんな記譜法もそれぞれ一長一短あり、
どれが一番いいということもないのだけれど、
楽器の種類を超えて使えるという便利さでは5線にアドバンテージがあって
現在はこのシステムで書かれるのが普通 である。
楽譜は良くできてはいるものの、あくまで音楽を書きとめるだけの目的
(そうすると沢山のひとが音楽を楽しむことができるから)でうまれたものであり、
「音楽そのもの」ではないということを忘れてはいけない。
音楽の設計図のようなものだと考えるとわかりやすい。

設計図は読めないといけない。
設計図は論理上完璧だが、音楽は理屈に合わないところだらけで、
そのギャップがわからないと読めないということになる。
音楽学校でよく言われる注意(ぼくもさんざん言われた)
「楽譜どおりに弾きなさい」はいかにももっともらしく響くが、
じっさいはまっかな嘘で、「楽譜どおりに弾いた」りしたら音楽になりはしないのだ。
そのギャップを知るには、
まず、楽譜は不完全なものであるとの認識をしっかり持つこと。
そして楽譜に対する深い洞察力をやしなう必要がある。そのためには
音楽の聴き方をかえよう。ただいい演奏に接して「うまいなあ」と思うだけから、
もう一歩進んで(つまりじっさいどう弾いているのかを聴いて)、
どうしていいと思うのかを考えてみるのだ。
そうすることで今まで素通 りしていた本当にたくさんのことに
気付くことができるはずだ。  

ポール・ヴァレリは「ドガ・ダンス・デッサン」で
「机の上にある花をぼーっと見ている場合と
デッサンしようと画用紙に向かっている時とではまったく違う」と言っているが、
これは演奏を学ぶときにもいえることだろう。

   
No.36 「エンドレス」

ギターの練習にはきりがない。完成というものがないのだ。
ひとつのテーマができたら、次のテーマというように順次進行していくわけでもない。
長くギターを続けている方は気づいているだろう。
音をきれいにだそう、とか、レガートに弾こう、とか、身体の力を抜こう、
とかテーマは基本的に変わっていないはずだ。
つまり最初に扉を開けたときにすでに核心に触れていたというわけだ。
練習内容はどこまでも洗練され続けていくというのが事実なのである。

一般的な教育の現場では、問いはかならず正解を持ったものとして出される。
これだと評価するのが簡単だからだ。
マスプロ教育にはこのスタイルは欠かせない。
そして学期や、試験によって時間でフィニッシュするというのも
普通 の教育の特徴だ。自分自身をかえりみると判るのだが、
基礎教育で習ったはずの内容はほとんど忘れてしまっているのに、
答えのない問題を目の前にするとすぐに途方にくれ、考え続けるという
選択をしない習性だけはちゃんと身についているのだ。
これは学校教育の最大の弊害である。

なにか問題があればそれについていこう。
その場で解決するような問題はたいしたことないことだろうし、
それは多分練習のなかでも退屈なものの部類にはいる。
テーマは変わらないが、その対応が変わっていくということを自覚しよう。
初めは問題にどうしても小手先で対処しようとする。
でも練習を重ねることで、それでは功を奏することができないと悟っていき、
だんだんと身体全体、精神全体からの対処に変わっていくのだ。
問題をみていたはずが、いつの間にか自分自身を見るということと
同じになってしまうのだ。この事実がわかるとき、
何か変化がおこるだろう。たとえ問題が解決しないと
いうことになっても、決してがっかりしないだろう。
そのときは「本当の練習のたのしみ」を見つけているのだから。

 

No.37 「先達」


先頃イタリアの巨匠、オスカル・ギリアの演奏会に行った。
マエストロ・ギリアは僕にとってはスペインに留学してたころに、
夏のイタリアのシエナでおこなわれるマスターコースに通って4年面倒見てもらった
なつかしの先生である。ちょうど20年前の話である。演奏を聴くのも20年ぶりである。
そのころの思い出がいっぱい浮んで来てちょっとわくわくして出かけた。
  
昔とおなじように子供のような笑顔でステージに現れたマエストロは
習ってたころよりもいっそう貫禄がついて(130キロというはなしだった。
ちなみに当時も100キロはあった)、坐ったとたん、椅子が悲鳴をあげていたのには
ちょっと苦笑してしまった。 会場がしずかになる。さてここから音が出てくるまで、
マエストロ独特の儀式が始まる。ひざの上でギターを落ち着かせてから、
両手が下がる。頭が下がってきて頚椎の上のほうをじゅうぶんリラックスさせる。
しばらく腕をぶらぶらさせて重さを確かめるように、
身体中意識してバランスをとっていく。何度も見た独特のポーズだ。
いったん決心して腕があがるが、また下がる。
間合いをはかっている様はまるで大相撲の立ち合いのような瞬間だ。
そして向こうからやってきた音楽とぴたりと息をあわせるかのごとくスタートした。
  
バッハのプレリュード、フーガ、アレグロに始まった演奏会はどの曲も色彩感に
あふれて、上等のタペストリのように慎重に織られてなお自由さに満ちていた。
確実に20年前の演奏より素晴らしかった。
研究、練習、摂生どれを欠いてもいい演奏は成立しない。
それをマエストロは口先ではなく演奏で証明してくれた。
先達として、20年経って「さあ、ついて来い」と再び言われたような気がした。
「マエストロ、貴方に学べたこと、とても誇りに思ってますよ」

   
No.38 「向上心」

体調がどうにも思わしくなくなって、それを整えるためにはじめた太極拳が
10年になる。薬や鍼なども解決の方法としてはあったが、
それら自分には向かない考えのものをオミットしていったところの
ひとつが太極拳だった。コンディショニングの方法はいくつ知っていてもいいという
考えなので、まあ続かないまでも、やってみようという程度の気持ちでの
スタートだった。そのおかげもあって今は快調ではある。

習いに行った時は、生徒の中で僕が一番若くて、
皆さん人生でも太極拳でもベテランぞろい。優雅な動きを参考にさせてもらった。
習いに来られている方は運動不足解消とか、ストレッチを兼ねて、
とかいずれにせよ、最終の目的は「健康」にあったことは間違いない。

でも先生は言われるのだ。「健康を考えて舞ってはいけません、
動きに集中するように」と。これがなかなか難しくて、一生懸命やればやるほど、
力が入って、舞っても舞っても清々しさにたどり着かない状態が続いた。
なんとか調子を取り戻したいという切実な思いがいつもあって、
現実からかけ離れていたというのが事実である。
太極拳を舞っているだけが「現実」で「健康」は「思い/ファンタジー」である。
そのファンタジーに邪魔されて現実の動きを見ることを怠っていたのだ。
だから動きに滑らかさが出なかったのだ。思いにかられると注意力は激減する。
ギターも同じようなものである。
その音と運動にのみ着目して練習をすると、
思いを馳せている暇などなくなる。弾いているという事実だけで充分になるのだ。
そこには「向上心」(ネーミングはいいけれど、
これもただの「欲」)と呼ばれるものも入り込む余地がなくなる。 
思いに囚われなくなった練習は評価されたり、または自分でしたりということか。


 

No.39 「日々の練習」

練習は面白くて毎日やっている。次のコンサートのプログラムの練習が
メインだけれど、その前に、基本パターンを導入に使っている。
右手だけで開放弦の練習をひとしきりやってから(今はこれが一番面白い)、
音階、スラー、アルペジオというのがおおかたの決まりだ。
それらはどれもウォームアップの役割もはたしてはいるけれど、
それよりももっと大事な要素がある。
  
よけいなことをしない、という習慣をつける。
またはそういう注意を持続させる練習として使うのだ。
練習全体の目的を一言でいえば
「今よりすこしでもスムーズにギターをひくこと」だから、
それに反する(つまりスムーズでない)アクションをしないことである。
ところがそうは思っても実際のレパートリの練習になれば、
運動のパターンが複雑なものだから、ついつい「なんとかして」しまうのだ。
その何とかしてしまうパターンにはえらく有害な動きや、
感覚の欠如状態が含まれていて、野放しにすれば、それこそやればやるほど
下手になることにもなりかねないし、身体を傷めることにもなる。
そういうよくない習慣に落ち込むのを防げるのは、注意深い練習でしかないのだ。

いつも動作のクォリティに注意して、すこしでも身体に緊張がでれば、
Noということができて、すこしでもつまらない音がでればこれもNoといえる習慣を
身につける機会にするのが基本練習の正しい使い方と今は思う。
いきなり曲に応用が効くわけではないが、続けていくと確実に変化があらわれる。
根気のいる作業だけれど、音、音楽が磨かれていくのが実感できるのだ。
昔カサルスの本に、生涯にわたってずっと音階だけは弾いていた。
音階だけでその日の練習が終わることもあった。という記述を読んで
その時はよく解らなかったのだけれど、いまはその面白さも意義もとてもよくわかる。

 
No.40 「安定」

例えば子供に対して「勉強を一生懸命やっていい学校に入って
いい会社に勤めて・・・・・」とリクエストすることは、
要は「安定」してくれ。ということだ。
この心情は注意してみていくと、いつも自分自身にも向けられていて、
何ごとにつけてもなるべく安定を求めていくようである。
しかし技術やセンスの上達ということは、そのプロセスに必ず「不安定」を含む。
頭で解ったことが身体レベルで実行できるまでにははなはだ時間を要すもので、
その時期はずっと不安定なのである。だから難しいし、面 白くもあるのだ。
  
上達のプロセスを大雑把に調べてみると。
1.言葉レベルで何をやるべきかが解る
(このレベルは日常生活ができる人であればたいていは問題はない、ということ。
反対から見れば、解ったところでほとんど何も役には立たない、ということでもある)
 
2.解ったことが1つの音でなら実行できる。
 
3.解ったことが2つ以上の音で実行できる。
 
4.曲中の(余裕のある特定の)場所で実行できる。

5.4.を含む1フレーズで実行できる。

6.複数のフレーズを弾ける。
 
7.問題点を(意識して)残しながらも1曲を通して弾ける。
  
ほんとうはこの後に「8.パーフェクトに弾ける」というのをつけ加えたいが、
これはその「パーフェクトさ」はどんどん逃げていくものなのでオミット。
 ひとつひとつがクリアされていくうちに、センスもどんどん変化していき、
最初の言葉のレベルの理解さえも変化しているかもしれない。
その変化に(つまり不安定に)いかについていけるかがポイントなのだ。
「不安定」という人間が基本的に避けようとする心情を
「上達」というプロセスが含んでいるという認識をすることで、
スタンスは大きく変わってくるんじゃないですか?

 
 

バックナンバー <1〜10>  <11〜20>  <21〜30>  <31〜40>  <41〜50>  <51〜60>  <61〜67>   

  大谷 環/作・編曲、テキストは こちら   CD、録音作品は こちらへ どうぞ