No.61 「身体を張る」

 スペイン・マドリッド王立音楽院の名教授ホルヘ・アリサのリサイタルを聴いた。僕がマドリッドで勉強していた時
期にはすでにギター科主任を務められていて、弟子達から、レッスンではそれはそれは見事な演奏をしてくれる。
ときいてはいた。しかし、実際に演奏会を聴いたことはなかった。
 マエストロは「他人前では緊張するから演奏はしない」と言われていたし、僕達もそんなものか、と諦めていた。
当日友人のギタリストでホルヘの弟子である相川達也氏(僕より長くマドリッドに居た)に聞いてみたが演奏会は
聞いた覚えがない、と言っていた。
 過去の来日は1964年、71年で、手元には来日のさい行った録音も残っている。35年ぶりの来日公演である。
 それほど我々の間ではブランクの長かったマエストロだから、「本当にステージで弾けるのだろうか」と半信半疑
というのが正直なところだった。
 その晩マエストロの手によって名器アグアド・イ・フェルナンデスから立ちのぼる演奏は、地味ではあるが一曲一
曲じつに丁寧に弾き込まれていて、心暖まる内容だった。聴きながら、そういえばギターはこういう音だったなあ、
とそんな思いがあった。 SPに残っているリョベトの演奏を彷佛させた。 同時にこういう先生に習っている生徒は
幸せだなあ、と感じた。アドバイズはステージまで持っていくための実際のプロセスを、自らの身体を通してやっか
いな実験を何度もくり返し(そうでないと一晩は弾けない)て得たデータがもとであるから、それは得心がいくという
ものである。理論先行や理想だけの言葉とはわけがちがう。たとえ同じ言葉になってもその気迫や重みはぜんぜ
ん違う。マエストロは「身体を張って」いるのだ。 67歳になるマエストロの演奏を聴きながら、僕もいさぎよい言葉
を吐きたいと思った。

 No.62 「楽 譜」

 楽譜は音楽家にとって財産だ。昔手に入れて以来、ほとんど日の目をみないような楽譜もあるが捨てられない。
これだけはどんどんたまって行く運命にある。その楽譜。最初はどれも同じように見えるのだが、用心して買わな
いといけない。同じ曲でも使えるものと、使えないものがあるのだ。
 このことにかんしてはちょっと苦い経験がある。20代に勉強を始めたジュリアーニのソナタ。最初に手に入れた
のはユニヴァーサルの楽譜だった。 一生懸命練習して、いざギリアのレッスンをうけに行ったら「ここの音がちが
う、そこはオクターブ下等々」あげくのはてに3楽章は曲の一部がまるまる抜けているというひどいものである事が
わかって、愕然としてしまった。 
   せっかく「一生懸命練習した」のに水の泡だった。ソナタは気に入っている曲だったので、その後きちんとした楽
譜(初版といわれるものも含めて)を集めて勉強しなおすことにした。
    しかし一度身についたものをご破算にするのはなかなか骨のおれる仕事で、けっきょくこの曲をさらうのになん
だか倍近くの時間を食うはめになった。こんなふうに労力も時間も損害をうけないようにするために信頼できる楽
譜は不可欠なのだ。入手の際にはまずは信頼できる人にきくことである。実際に弾いている人が望ましい。アドバ
イザーがいないときの注意は、編集者に個人名が書いてない楽譜に手をださないこと。「この楽譜に関しては責
任をとるひとがいません」ということを言っているのと同じだからだ。
 こういう楽譜は音ミスや運指がめちゃくちゃなものもおおく、「一生練習しても弾けない」運指が平気でついていた
りするのだ。熱心にやればやるほど、泣くことになる。くらべてよい編集(編曲)、よい運指でやればどれほどの勉
強になることか....楽譜に関した基本的心得の話でした。

No.63 「文明の利器」

 現代の日本にあってはもう死語になっている「文明の利器」だけれど、さいきん僕 が使っているICレコーダは練
習に役立つそれこそ利器である。 使っているICレコーダはようするに、マイク、スピーカ内臓の簡単な録音再生
機で ある。サイズはてのひらに充分入る大きさ。MDやカセットみたいにメディアを使わな いので、本体以外に準
備がいらない。  
 いちばん重宝している理由は、ワンタッチで録音ができて、ワンタッチで再生がで きるということだ。録ったその
場ですぐに聴けるというのは嬉しい。 「自分の音を聴きながら」というのは練習に際しての鉄則だけれど、これが
じつは 思うようにいかない。他人の音だと(たとえば僕だったらレッスンしている時など) けっこう細かいところまで
気付いて、(偉そうに)アドバイズなどしているわけだが、 自分の音をライブで聴いて細部に気付くのは至難の技、
別の話なのだ。神経の大部分 が運動コントロールにとられてしまって、聴くほうに回らないのかなあ、などと思う。
 理由はともあれ、録音したものを聴いてみるとライブで聴いたときの印象をうわま わることはまずないから、客
観的に聴いていないことに間違いはない。この自分の演奏の「へたさ」を我慢して(けっこうなさけないときもある)
聴きながらどこがどう悪いから「へた」なのかを考え、直していく。短い時間で区切って作 業をしてこそ有効のよう
だ。1回録っては1回聴くという作業を繰り返す。気に入る までアプローチする。このちょっと録って、ちょっと聴く
のにICレコーダはじつに便 利なのだ。 いちど機械を通して時間をずらしただけで、 思ってもいなかった勘違い
や、身体の都合で出ている不自然な音などの発見ができる。さらに修正したものをその都度聴く ことで磨きがか
かる。そうやって、たとえ小さな個所でもいくつかがクリアされるこ とで曲全体の息吹きさえ変ってくることもあるの
だ。
 
 No.64 「譜読み」

  練習のスタートはまず譜読みである。曲を深く知ることにつながる。聴いたことが ある曲だったら、記憶をなぞ
っていくような作業になるかもしれない。もしソルフェー ジュ(音楽のリテラシィ)が得意でなかったら、すこし練習し
ておおよそ曲の感じが つかめてからでも、いっこうにかまわないと思う。  
 いずれにしても楽譜を「読む」作業を独立させることが要であると言える。 「弾きながらだって、楽譜を読んでい
るではないか」という声が聞こえてきそうだ けれど、だめだ。譜読みはその作業を独立させてこそ意味がある。  
 なぜか。ギター(他の楽器でも同じことだけれど)を弾くことは思っているよりずっと複雑 で込み入った作業であ
る。指をはじめ身体のコントロールをまったく気にせずには弾 けない。 たとえば「歩く」という作業と「ギターの演
奏」をしている時の気の使い方 を比較してみれば、どれほど面倒なことかが判るというものだ。 注意を集中した
状態で身体を操作しながら、なおかつ楽譜に書かれた情報を瞬時に 理解し、しかも実践するというのは至難の
わざと言える。どう考えても同時に仕事が 多すぎるのだ。  
 ギターを弾くということから離れて、譜読みを独立した作業にすることで、どれだ け譜面に書かれたデータを汲
み上げられるようになるか.....。  
 通常ぼくは譜読みのさいには拍子をとり(指揮のまねごとをし)ながら、歌(歌手 のまねごと、ときには鼻歌であ
ったりもする)を歌いながらやっている。  
 そのときは余裕である。楽譜にある記号はくまなく見ることができるし、運動にし ばられないから不自然なフレー
ジング、アーティキュレーション、アクセントなどが なくなり、のびのびと自由に音楽のイメージを膨らませることが
できる。あとはそれ をギターに移していくだけなのである。