「稽古と練習」
  演奏のためには準備が必要である。その内容はおおきく分けて二つある。ひとつは稽古、ひとつは練習である。稽古という言葉を最近は聴くこ
 とが少なくなってきたが、辞書をひいてみると「古(いにしえ)を稽(かんがえ)て、物事がかつてあったやり方と、これからあるべき姿を正確に知る
 こと」とある。一方練 習には「学問や技芸などをくり返し学習すること。また一定の作業をくり返してその技術を身につけること」とあった。
 稽古はプランニング。練習はトレーニングと訳してもいいだろう。あきらかに違う内容ではある。
 僕がやっている稽古は、その曲のタイトル、表情記号(AllegroとかAndanteなど)、作曲者、作曲年代、場所、歴史などを調べ、作曲者の心情を想
 像して、じ っさいに少しずつ弾いて運指を検討しながら、自分はいったいこの曲をどう弾きたいのか、ということを具体化していくことが中心だ。
 重複する時間はもちろんあるが、基本的には練習は稽古が一段落してから始ることになる。どこに行くのか判ってから進もうというわけだ。
 練習の段階にはいってからも、なにか問題が起これば、かならず、稽古にもどり、チェックの入れ直しを何度も行う。初めに頭で考えたことをなん
 とか音にしていこうとしていくと、身体側の都合というものがでてくる。そこで頭と身体のつじつまを合わせていくという仕事がでてくるわけだが、稽
 古で決めたことに執着することさえなければ、どんどんプランはバージョンアップしていく。
 そのことで練習はなんどでも生気をとりもどし、活き活きしてくる。マンネリ化もないし、演奏の肌理もますます細かくなる(はず)、というわけだ。
 いつもいつも「お楽しみはこれからだ」の状態なんである!

「具体化」
  練習を続けていると、思うようにいかないことがある。うまく弾きたいのだが、音はそうなってくれない。何度アプローチしても、納得するまでには
 いたらずに、時間だけを過ごしてしまうという状態である。
 この状態をじっくりと観察していくと、面白いことに気が付く。うまくいっていないところは、「思うように」というそのものの「思う」内容が具体化してい
 ないのがわかるはずだ。タイミング、ヴォリウム、アクセント、カラー、スピードなど細かい設定のイメージそのものが欠如しているのだ。
 そのイメージが明快にあれば練習は進めることができる。
 もしすぐにできなくても方向ははっきりしているのだから、また明日の練習に確実につなげることができる。希望がもてるわけだ 。
 これがはっきりしていないと、なんどでも「ああでもない」し「こうでもない」練習が続くことになる。つまりそのつどそのつど偶然にまかせた内容であ
 るわけだから、上手くいくことがあっても「たまたま」できたわけで、なぜできたのかは判らないから、くり返すことができない。つまり練習そのもの
 が成立しない。
  さて、その具体化の内容なのだけれど、難しい話ではないのだ。それは何度も聞いた話。たとえばメロディが伴奏から浮き立つようにし、拍子で
 きめられたアクセントが逆転していないようにし、付点音符では長い音符のヴォリウムは短いほうよりも大きいとか、長い音符は強くひくとか、ごく
 ごく当たり前のことを当てはめていくことが大事なのだ。
 こういう小さな基本ルールひとつひとつが守れるようにていねいに稽古を重ねて、運動がスムーズに流れるようになってくると、音楽自体から香が
 出てくるのだ。まるで「ようやく約束をまもってくれたね」とでも言うように。


「ひとつの答 」
  てもとに2枚のCDがある。どちらもセゴビアの録音である。1973年、5月と12月にマドリッドでとったもので、彼は1893年の生まれだからこの時齢
 80である。どちらの録音もひとことで言えばギターは「へたくそ」である。だが「凄い」のだ。較べてすごいのではなくて、ただ「凄い」のである。
 僕は25才のころまではセゴビアの演奏は全く好きでなかった。妙に甘ったるく、不自然に感じられて、ほとんど聴いていなかったが、グラナダでレ
 ッスンを受けて、実際に演奏を聴いたときぐらいから、だんだんと自分のなかでの評価は変っていって、今はセゴビア抜きにギターを語ることはと
 てもできない。
 セゴビアに興味を持ち続けている理由は、もちろん彼の音楽が偉大であるということが大きいのだが、それだけではない。「老い」へ答えがあり
 そうな気がしているのももう一つの大きな理由だ。
 ギターは身体の運動抜きには存在しえない。肉体は加齢と共に衰えていくのは必定である。スポーツの世界では故障やリタイアというのは当た
 り前という認識があるけれど、楽器の世界もそれがひっそりとしているだけで、プロ、アマかぎらず日常なのだ。
 つねに身体のメンテナンス、技術のバージョンアップを考え、実行するのを怠っていれば、はやい時期に身体が言うことをきかなくなってくるの
 は、すこしでも観察眼をもって経験者を見ていけば判ることだろう。10年ぐらいはあっという間で、気がつけば、ちっともレパートリは増えておら
 ず、音楽性もたいして上がらず、という例はいくらでもある。
 セゴビアはそんな加齢にたいして実在するすばらしい答えの一つだと見る。  この録音のセッションはそれぞれ1日ずつで終わっている。ほと
 んどがテイクワンOKということだ。セゴビアが「さあどうだ!」と言っているような気がする。


「常識のうそ」
  もう30年以上もギターに関わっているわけだけれど、いまだに昔とかわらないへんてこな常識がまかり通 っているのはおもしろい。 「左手の指
 先はタコができるくらいにならないといけない」というものがそれ。「なるほど、そのぐらい練習しなければ上手くはならないだろうな」と簡単に納得
 して、タコができて喜 んでいる人はいる。
  でも、タコができるのは力んで「必要以上の力が入っているからこそ」できるのが第一原因であり、「私は力んで弾いています」という証明と見た
 ほうがずっと真実にちかい。
 往年のスペインの名手ホセ・ルイス・ゴンサレスは「左手は指板のうえにハンカチが落ちるように弦に触れるように」と言った。
 考えてもみよう。左手の指先は押弦という仕事と共に、その作業に必用な力の方向、量 をはかるセンサーとしての働きをになっている。そのもっ
 とも敏感で なくてはならないところが角質化で鈍くなっていて、デリケートな演奏などできるものだろうか。
 ことは左手だけに留まらない。右脳、左脳という「アイディア」は否定しないが、そう簡単に分けられるものではないのが事実である。左手の過剰な
 力は右 手にも確実に影響しており、筋肉は緊張し(緊張は筋肉のレスポンスが悪くするから)弾弦は遅れがちになる。結果 、音は暗くなり、ひい
 ては音楽も重たくす る。
  この5年ぐらいずっと右手の力を抜くことに専念していた。ちょっと先がみえてきたし、その練習の影響だろうか、うれしいことに左手のタコもず
 っと減った。今では1、4指はほどんどタコが見えなくなるぐらいまできている。
 これから先5年ぐらいでもう一段左手を洗練しようと思っている。目標は左指先を見た人に「ああ、ギターをやめたのですね」と言われるようにな
 ることである。


「楽譜 その1」
  楽譜は音楽家の宝である。プロもアマチュアもない。僕はけっこう買うのを我慢していると思っていたのだが、さすがに年数が重なったせいで、
 本棚2つぶんと押し入れ半分ぐらい(奥のほうにあるのは随分陽の目をみていないものもある)は楽譜で占められている。
 この先捨てることもないだろうから、自分の居場所を狭くしていくのはわかっているが、必要に応じてまた増えていくことにはなるだろう。はじめ
 のころはろくでもない楽譜を何度も買わされた。さすがに懲りて、最近はすこし智恵がついた。ダメな楽譜というのはたとえば、古典の作品なのに
 出版者が勝手に音を代えたり、運指はついているものの「絶対に弾けない運指」だったりするものだ。じゃあ、どうやってそれを見分けるの、と問
 われると、いちがいには言えないけれど、まず絶対買わないほうがいいのは誰が編曲したのか個人名がない楽譜。それははなから除外した方が
 いい。
 責任はとりませんよ、ということをその事実は含意している。いいかげん練習した後に間違いが見つかって、また練習しなおしというのではいくら
 時間があっても足りない。
  それから下手なギタリストのものもダメ。本人が弾けない(弾くつもりもない)から、とんでもない音や運指がついていても平気ということがあるか
 らだ。
  一流の演奏家の書いた楽譜は、言ってみればいいブティックのようなもので、音を選択するセンスがよいのだ。その選択を通じて音楽の美とは
 なにかを味わうことができる。書かれた運指は実際に使えることを本人が証明しているし、それを丁寧にたどることによって、身体の使い方も、学
 ぶことができる。
 この指をここで使った時に、どんな音を求めていたのか。指や腕の筋肉のコンビネーションを、ソルは、タレガは、セゴビアは「どう感じていたか」、
 そして「そのときの心情は」と想像しながら弾くのはなかなかたのしい作業なのである。


「標準」
  「わかる」ということは、文字どおり「分けられる」ことから出ている。音楽が「わかる」ということも、そのへんから出発すると少し簡単になるように
 思う。
 クラシックを一度も聴いた経験がなくて、いきなり「マタイ受難曲」をきかされて「わかる!」と言える人は希有な才能の持ち主である。
 ようするに比較するものを自分の中に持てれば、それはよくも悪くも「標準」になって、「わかって」いくのではないだろうか。
 僕の「標準」のひとつに長年聴き続けている録音がある。
 もうかれこれ30年以上は聴いていることになるが、最初はLPで、それからCDにバトンタッチして聴き続けていているということになる。
 いちばん回数が多いのが、カール・リヒターのチェンバロ、指揮。オ−レル・ニコレのフルートなどによるバッハの「音楽の捧げもの」。おりに触れ
 て聴いて飽きることがない。この録音のあとにも(データには1963年の録音とあるから当然といえば当然)たくさんのちがう演奏を聴くことができる
 のだが、またリヒター盤にもどってしまうのだ。
 ほかに永く聴いているものをしらべてみたら、ビクトリア・デ・ロス・アンヘレスによるカントルーブの「オーベルニュのうた」。グレン・グールドのバッ
 ハの「インベンションとシンフォニア」「バードとギボンズ作品集」。クライスラーの自作自演集。ジャン・ユボーのピアノ、アンドレ・ナヴァラのチェロな
 どによる、フォーレ「ピアノ四重奏第1番」などがあった。
 どの演奏も憧れをもって聴いた。こんな演奏ができればどんなにか楽しかろうと。今も昔もこれらの音を聴くと同じように心引き込まれることはか
 わらない。
 その引き込まれ方を含めて僕の音楽の標準になってくれているようだ。

「体育」
 
練習は身体の運動をとおして、自分自身をしばっているものから限りなく解放され て自由に向かっていくプロセスである。  
気をつけていたつもり(だけ?)だったが、実際は力に頼っていた練習がわざわい して、身体の自由がきかなくなった。一生懸命練習することが自由どころか、自分の 首をしめていたということだ。それを機会に力ではない(おもに重力を利用した)弾 き方の研究を始めた。  
慢性的に必要以上の力を出すことを強いられた筋肉は、その余分なエネルギーで、 みずからを傷つけるのではないだろうか。その筋肉は、いわば疲れた状態にあって、仕事をしろ、という(脳からの)命令がきても、ちゃんとした反応が起こるはずもな く、また脳へフィードバックされる内容もゆがめられて、次の運動に支障をきたす、という悪循環を招くのだ。  
新しい弾き方(今もその内容は模索中であるので常に変化していて、決定版という ものはない)に変えようとしてから6年ほどの年月がたつけれど、そうやって(徹底 的に力にたよらずに)弾いてわかってきたのは、筋肉の負担にならない運動を探して いると、運動の質そのものが変っていくのではないかということだ。  
当面はとにかくエラーの少ない状態になれば、と思ってやっていったのだが、結果 としていちばんよかったのは音色のコントロールがしやすくなったということだ。え らく気をつけてしかできなかったものが、少しでもらくに弾けるようになってくるの は嬉しい。美しいポリフォニーの表現に欠かせない、極力薄いタッチも可能になってきた。  
以上のような技術にたいする事柄に以前の自分であれば、神経質になっていたのだ が、今はまだ満足がいくというレベルではないにしろ、練習の気楽さはよほど増した。それは即、練習量の増加につながる。  
こういうスタイルの「体育?」もあってよいのではないかしら。


「ウェーバー・フェヒナーの法則」
 ウェーバー・フェヒナーの法則というものがある。内容は刺激と感覚にかかわるもので、例えば、初めに掌に100gの重りをのせておいて、少しずつ量を増やして、どのぐらいの重さが加わると物が乗ったかが判別できるかというと、必要な重さは約10 g。では1?の重さが最初に乗った時の判別に必要な重さは、こんどは先の10倍の100 gになるというもの。数字は便宜上の物で厳密ではないが、感覚はわかってもらえると思う。
 この法則は「りきみは感覚を鈍くする」と翻訳することができるであろう。ウェーバー・フェヒナーの法則は同一感覚上の法則としているが、僕にはどうも他の感覚にもリンクしているような気がしてならない。つまりりきんでいる時は音もまともには聴いていないということである。
 とてもややこしいパッセージなどを弾いている時など、知らずしらずりきんでいるのに気付くが、その時聴覚は明らかに仕事量を減らしているのだ。実際に練習の音を録音してみたりすると、実際に弾いている時に気付いていなかった音が入っていたりするのだ。
 上達のためには自分の音をしっかり聴き、それに気付き磨きをかけるのが当然であり、「聞こえない」では話にならない。
 要はりきみがないように注意すればよいということなのだが、これがやっかいなのは、りきんでいると先の法則(感覚を鈍くする)がでてきて「りきみそれ自体に気付かなくなる」ことである。
 打開するには日常での気付きの頻度を上げていくしかない。ギターに関わっている時だけ注意して、というわけにはいかないのだ。座る、立つ、食べる、etc.すべての日常の動きのクオリティが変らずにギターの内容だけを変えることは不可能に近い。人間の身体というのはそういうものだ、と最近気付くことしきりである。


「アマチュアの道」
 
最晩年のインタビューでセゴビアは日に5時間の練習をしていると言っていた。ブリームは現役時代8時間。五嶋みどりの師であるディレイは5時間練習時間があれば、2時間は基礎練習にあてなさい。と述べている。
 レパートリを増やし、磨き、メンテナンスをしながら、プロ活動するにはコンスタントに少なくない時間をかける必要があるということだ。 よほど生活に余裕があるか、学生の一時期以外はアマチュアでこれだけの練習時間はとるのは困難だ。
 じゃあアマチュアに道はないのか。 音楽で充実した生活をする。というのはプロにとってもアマにとっても同じ目的であるが、やりかたがちょっと違うのだ。
 ギターのプロは言ってみれば24時間営業の専門店である。ぼくも習慣的無意識的に四六時中ギターのことを考えていて、あるときにパッとアイディアが閃いたりする(こともある.....ただし使えるものとは限らないけれど)。
 一方アマチュアは時間限定である。練習時間の捻出のためには仕事をうまくスピーディに片付ける工夫がいるだろう。生活を整理して無駄な時間を極力削っていく必要に迫られるだろう。主婦だったら少々の家事の手抜きを大目に見てもらうよう、家族を説得しなくてはならないかもしれない。それも楽しい充実のギターライフの一部なのだ。仕事が忙しくてできません」は「仕事を整理してまでやる気はない」というのと同じである。
 目指すのは「玄人裸足」である。レパートリは10曲もあればいい。難しかったり長くなくていい。しかし、内容は「甘っちょろいプロより弾くぞ」という気概をもって弾いてもらいたい。「アマチュアだから下手です」というのは、言い訳である。それを言ってしまったら進歩はないのだ。


「身体を張る」
 スペイン・マドリッド王立音楽院の名教授ホルヘ・アリサのリサイタルを聴いた。僕がマドリッドで勉強していた時期にはすでにギター科主任を務められていて、弟子達から、レッスンではそれはそれは見事な演奏をしてくれる。ときいてはいた。しかし、実際に演奏会を聴いたことはなかった。
 マエストロは「他人前では緊張するから演奏はしない」と言われていたし、僕達もそんなものか、と諦めていた。当日友人のギタリストでホルヘの弟子である相川達也氏(僕より長くマドリッドに居た)に聞いてみたが演奏会は聞いた覚えがない、と言っていた。
 過去の来日は1964年、71年で、手元には来日のさい行った録音も残っている。35年ぶりの来日公演である。
 それほど我々の間ではブランクの長かったマエストロだから、「本当にステージで弾けるのだろうか」と半信半疑というのが正直なところだった。
 その晩マエストロの手によって名器アグアド・イ・フェルナンデスから立ちのぼる演奏は、地味ではあるが一曲一曲じつに丁寧に弾き込まれていて、心暖まる内容だった。聴きながら、そういえばギターはこういう音だったなあ、とそんな思いがあった。 SPに残っているリョベトの演奏を彷佛させた。 同時にこういう先生に習っている生徒は幸せだなあ、と感じた。アドバイズはステージまで持っていくための実際のプロセスを、自らの身体を通してやっかいな実験を何度もくり返し(そうでないと一晩は弾けない)て得たデータがもとであるから、それは得心がいくというものである。理論先行や理想だけの言葉とはわけがちがう。たとえ同じ言葉になってもその気迫や重みはぜんぜん違う。マエストロは「身体を張って」いるのだ。 67歳になるマエストロの演奏を聴きながら、僕もいさぎよい言葉を吐きたいと思った。